まーいむまーいむまーいむまーいむ
えんやっさーほっほっほー
まーいむまーいむまーいむまーいむ
えんやっさーほっほっほー
ちゃーらーらららっ
ちゃーらーらららっ
たーらーらーららちゃっちゃっちゃ
目次
私は多趣味だ。
歌う、踊る、喋る、描く、造る。なんでも好きだし楽しい。
なんでこんなに多趣味なんだろう?自分の多趣味を生かせないだろうか?と考えているうちに、『そもそも趣味ってなんだ?』という考えに行き当たった。
私の趣味のひとつ、『考える』だ。(哲学とも言えるかもしれない。)
中でも『本質』が好きだ。本質とは、すべての根元。始まり。中心、核。
私の多趣味の根元は何だ?そもそも趣味ってなんだ?趣味とは、『遊び』だ。遊びとは、無くても生きていける。本来不必要なものだ。
その不必要なものこそが私は好きだ。生きるのに不必要にも関わらず、しかし無くては生きていけない気がする。
この『趣味』つまり『遊び』というものは、いったいいつから存在するのだろうか?太古の昔、原始時代にも遊びはあったんだろうか?
ーーあぁ、歌う、踊るがあるじゃないか。
歌う、踊るならば、道具が無くても出来る。現代でも、アフリカの小さな種族では、歌う、踊るという事はしている。
ということは、人間が一番最初に覚える遊びは『歌う、踊る』事なのかもしれない。
しかし歌うことも踊ることも、ある程度技術が必要だ。歌うには歌が上手くないといけない。
いや、上手くなくても良いのだが、それぞれのプライドがくすぐられてしまう。
歌の上手い一部のものがもてはやされ、下手な人は目立ってしまう可能性がある。
ーーとなると、やはり『踊る』だ。
『踊る』であれば、たとえへたくそでも本人が楽しめる可能性は高い。
なにしろ体を動かすことでリフレッシュ出来る。
難しい動きは技術が必要になるから、簡単な動きが大事だ。
簡単な動きとは、例えば手を動かす。足を動かす。歩く、手を振る。
踊りは、誰かと共有しやすいという事がひとつの意義だ。
ひとりでも踊れるが、やはり誰かと一緒に踊った方が楽しい。
難しい技術は必要ない。そこに難しい動きをいれてしまえば、いっぺんで優劣が発生し、楽しめない者が出てきてしまう。
皆で動きを共有できて、皆が楽しく、難しい動きはいらない。
ーーそうだ、手を繋ごう。
手を繋げば、下手に手を動かせなくなる。つまり難しい動きが出来なくなる。
しかもどちらか片方が下手だった場合、つられて上手いひとも下手になる。逆に考えると、上手い人は下手な人の動きをカバー出来る。win-winだ。
手を繋いで皆で動きを共有する。難しい動きは出来ない。歩く、手を振る、それくらいしか出来ない。
出来るだけ沢山の人と動きを共有できたほうが楽しい。そして、だれひとりとして仲間外れはいけない。
ーーそうだ、円になろう。
円になれば皆が手を繋ぐことになる。人が増えたらどこかへ入れば良い。円はいくらでも大きく出来る。
皆でやるためには、どうしよう。皆でやる為には、皆が無理せず集まれる事が重要だ。
朝は田畑を耕したり、餌を取りに行ったりと仕事が多い。
朝はダメだ。昼の時間は、皆それぞれのタイミングがあるからダメだ。
ーーそうだ、夜にしよう。
夜なら、少なくとも朝よりも参加出来る人は多いだろう。
終わる時間も、皆で決めれば良い。絶対に夜だ。
しかし夜だとすれば問題も生じる。
危険が降りかかる可能性がある。そう、狼や熊などに襲われる可能性が高くなってしまう。
そのためにはどうすれば良いだろう。
ーー火だ。
狼や熊が現れたとして、火があれば対応できる可能性は高い。
そもそも他の動物は火を恐れているから、近づいてもこないかもしれない。
火があれば明るくなり、照明としての機能も果たす。よし、火は絶対だ。そんな火だが、我々にとっても危険だと言う側面がある。
火の扱いは注意しないといけない。誰かが火の番をすると、その人だけ仲間外れになってしまう。それではいけない。
出来るだけ全員が楽しくないといけない。仲間外れは良くない。
ーーそうだ、火を中心に置こう。
火を中心に置き、みんなで火を囲もう。
みんなで火を囲めば、みんなが火の番をすることにもなる。絶対に火は真ん中でなければいけない。
ーーーそうして、マイムマイムへと辿りついた。
最後に戻るべき場所はマイムマイムだったんだ。
だから今なおマイムマイムは愛され、小学校の時にその楽しさを覚える。
誰もが覚えて、誰でも出来る。難しいことはなしだ。仲間外れはつくらない。
ーーだから人間が最後に還るのはマイムマイムだったんだーー
そんな事を考えた昼下がり。
たどり着いたからと言って何にもならない昼下がりであると言う事は、一番私自身が解っている。
ところでこれは、映画『帝一の國』を見た後に書いた感想である。
マイムマイムってすげぇ。