RPGゲームが好きだ。
今でこそゲームをする機会は皆無となってしまったが、小学生の頃はハマりこんでゲームをしていた。
私には兄がいたから、その影響だ。ちなみに父もゲームが好きだ。
ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーというRPGや、ゴエモンシリーズやロックマンなどのアクションなど、同世代の同性と比べるとゲームをやった機会は多いだろう。
自分が一生懸命ゲームをやりはじめたのは小学生の頃だ。中でも、ファイナルファンタジーはかなりハマった。
しかし自分のレベルには少し合ってなかったんだろう、なかなか進められず苦戦して、しょっちゅう兄にヘルプを要求した事を思い出す。
兄はといえば、最初の頃はやってくれたが、思春期に差し掛かった事もあり段々応えてくれなくなった。
私はゲームを進めることが困難になった。それでも友人から情報収集したりしてどうにか進める。
それでようやく『この先行ったら、エンディングっぽい』という所まで来た。
ゲームに慣れてる人なら解ってもらえるかと思う。『もうすぐ終わる』気配が解るのだ。
それで私はと言うと、なぜかそこから進めるのが嫌になってしまった。
それは、『物語が終わってしまうのがイヤ』だったからだ。
物語が終わるのがイヤ
思えば、ゲームだけじゃ無い。
楽しみに読んでいた漫画やアニメも同じだった。
もう少しで終わりそう、という気配に気づくと、途端に続きを見たくなくなる。
なんならそのまま、エンディングを知らないままのモノもある。
ハッピーエンドなら良いとか、バッドエンドだから見たく無いとか、そうゆう問題では無いのだ。
とにかく物語が終わってしまうのがイヤだ。
逆に、スラムダンクのようなエンディングはとても好きだ。
ザッと展開が進んで、尻切れとんぼのように終わるのだ。
そのエンディングに賛否両論があったのは知っている。
私はあのエンディングこそ、良いものだと言う気持ちになった。
スラムダンクは漫画としては終わったかもしれないが、あの漫画の中の世界はずっと続いてる気がするからだ。
終わってほしく無い。
物語の中のキャラクター達はずっと生きていくのだ。
その中で幸せな経験をしてイヤな経験をしていつかは死ぬのかもしれない。
だけど、なにか『未来』を感じたいのだ。
もしかすると、私は私が死んだ後の事を想像して重ねているのかも知れない。
私が死んでも世界は回っていく。
私のことを悲しんでくれる人がいたり、罵る人がいたり。
それが良いし、そうであってほしい。
いつか地球が無くなるかもしれないけど、それでも宇宙は続いていく。
全てが無くなって時空が止まる時なんて有り得ないと信じたい。
そんな不思議な気持ちになる。
エンディングを受け入れる勇気
そんな私は長編小説を書いていて、しかしそれも、とうとうエンディングを書くことになる。
エンディングを書く事はとてもつらい。
だけども、なんと『終わらない物語を書く労力は計り知れない』のである。
長編と言えども、執筆期間は数ヶ月だったりする。
なのに、『終わらせないように続きを書く』事はなんと大変なことかと痛感した。
物語はいつか終わらせなくては行けない。
いや、物語を終わらせてこそ、ようやく苦しみから解放される。
なのに私はまた新しい世界を作りたくなって。
なんとも不思議な話だが、結局のところ、終わらせる勇気は必要なのだ。
終わらせない事がどんなにツライか知ってしまった今、エンディングを受け入れようとほんの少し納得する事が出来た。
どんな物事にも終わりはある。
続けることは大変だ。
新しい事を始める時のワクワク感。
終わりを見守る勇気。
今日はそんな事を書きたくなった。
私が読んでいたブログがひとつエンディングを迎えたらしい。
私は物語のエンディングを書き連ねて。
センチメンタルな夜風をエアコンの風速に重ねながら、今日はとりとめのない文章を書きたくなった。