365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

殻をひとつ割った感覚

あたし良い記事書くじゃん、の時間がやって参りましたぁあ!

昨日書いたブレッブレな記事。自分で読み返してみたけど良い記事じゃん!のタイムがやってきた。

そもそも生き辛さにどうしようもなくなって自分自身と向き合ってきた私だけど、もしかすると何か一つ越えたのかもしんない。

疲れてきた。自分と向き合うのに疲れた。いや、勿論最近も『こころの中にいる自分』に問いかけてみたりはするんだけど、以前とは明らかに何かが違う。

前と比べたら、自分という人間がどんな性格でどんな性質を持ってるのか、だいぶ解ってきた気がする。

伝えたいことや言いたいことは沢山ある。だけどそれを文章にするって大変だ。

どんな人にも解るように、出来るだけ沢山の人に私の言葉が伝わるように、ある意味『気を使って』表現するのは本当に骨が折れる作業だ。対面ならまだしも、文章はとくに気をつけなきゃイケナイ。

下手に言葉を並べれば誤解を招くかもしれない。その場で伝われば良いが、誰かに自分が意図しなかった形で伝わってしまうかもしれない

そういえば昨日は『もしピコ太郎が町の真ん中を恐る恐る歩いてたら目立つでしょ?』みたいな文章に出会った。そりゃ目立つわって思ったんだけど、その人が言いたかった事って『目立たないように頑張っても、目立っちゃう人は目立っちゃう。だから、ビクビクしないで堂々と歩こう』みたいな事だった。(と思う。)

『ピコ太郎が町の真ん中を恐る恐る歩く』っていう表現を文字にしちゃうなんてわたしにとってはビックリ仰天なんだけど、本当に伝えたい時ってそうゆうことだよねって思った。

良い表現が見あたらなくて、もしかすると相手に誤解を与えるかもしれなくて、だけど『伝えたいことがあるんだよ』ってことは確実に伝わる。そうゆうことだよね。

・・・あかんあかん、私って真面目なもんだから、こうして書いてるとついつい真剣に真面目な文章になってしまうわ。違う、今日はもっとザッと書こうと思ってたんだよ。

たぶん、ウザいくらい真面目なのが、私。


昨日書いた自分の記事を読み返してみて面白かったわけ。

自分と向き合うことにも慣れてきたし、自分自身のこともだいぶ解ってきた。これからも『自分と向き合う時間』は大事にしたいと思うんだけど、あんまり『自分と向き合う』を連呼してるとそろそろ『自分と向き合う教』だと思われそうだから、ちょっと書くのは制限しようかと思う。実際自分で読んでてもウザイ時あるし。

そういえば昔mixi(みくしー)っていうブログサービス?みたいなのがあって、そのときもブログはときどき書いてたんだ。そのときも今と同じ、真面目な事を書く日とフザケた記事が混合してたような気がする。

出来るだけ読んでる人(友人)を楽しませようと頑張って、フザけた記事を書いてみて、一生懸命考えて、『なにやってんだろ』ってふと我に返る、そんな。

きっと私の本当の内面は真面目。それでときどき真面目な事も書いてみる。だけど、自分でも『真面目すぎるな』って思ってウザがられる気がして、そのときは結局更新しなくなってった。

今、こうして改めてブログを書き始めてみると、やっぱり私の核(コア)はウザめだったんだなぁと思う。『ウザイ』って言うのは、これも配慮した言い方をしてるんだけど、つまりは真面目ってこと。重たいとも言う。しかし核、が重たいのは直らないししょうがないよね!
いや、きっと本当はみんなも真面目でしょ?真面目なところを見せるのが恥ずかしいと思ってるんでしょ?

それでいて、『そんな真面目じゃねーよ』って明るく見せたいんでしょ?

きっと自分の中の核ってそれぞれあると思う。それを見せるのがイヤな人もいる。わたしもそうして『軽いフリして』暮らしてきた部分はある。

とにかく何が言いたいかっていうと、あんまり無理しないってこと。伝えたいことを書くことは大事だけど、それよりもっともっと自分をさらけ出して、かっこわるいところも見せていこうってこと。

その方が、私にとって良いと思ったから。ときどきふざけたくなって、時々真面目で、ときどき本気でバカな事をしたくなる。

それが私なんだから、『ついていけないwww』って言われてもまあ仕方ない。今書いてて思い出したけど、そういえば友人からすると、私のテンションだとかの落差があんまり激しいらしくて『ついていけないwww』ってあきれられた事がある。
その時は『見捨てられた』ような気がして怖くて、それからこのテンションの落差を極力みせないようにしてきた。
だけど、どうやらとうとうソレにも疲れた。嫌われないように見捨てられないようにどうにか自分をよく見せようと生きてきたけどソレに疲れた。

わたしを助けてあげられるのは、私。


だって無理してるってことだもん。私の事を私が見捨てない。それだけで十分。いざとなったときに助けてくれるのは自分自身。
誰かと船に乗ってるときに私だけが落ちたとして、サメがまわりをうろついてたらそこに飛び込んでくれる友人なんてそう居ない。恋人だってそんなことしてくれるか解らない。

そこに飛び込んでくれ!なんて言うのは傲慢だ。相手の命をさらしてまで、命を削らせてまで、私だけ生きようとは思えない。

助けてもらえないことは当然のことで、助けてくれと強要するのは傲慢だ。非難するのも傲慢だ。裏切りだと指を指すのも傲慢だろう。

自分の事を大切にしてあげられない人は、本当の意味で誰かの事も救えない。

自分の事を疎かにする人に助けられた時、心の底から喜べるかと言ったら、傷跡が残る可能性は高い。

誰かに期待ばかりしててもダメなんだ。自分に期待してみよう。自分に期待したら、それに応えてあげられるのは自分だけ。

自分自身に期待出来ないのに、他人に期待するなんて他力本願ってやつだ。

そんなことを思った。

わたしは、自分の周りにある沢山の殻をひとつ、割ったかもしれない。

---スポンサーサーチ---

次へ 投稿

前へ 投稿

© 2024 365文

テーマの著者 Anders Norén