部屋に入ると、まだ誰も住んだ事のない、新しい匂いがした。
嗅ぎ慣れない、ひと気のない匂い。
新しい壁紙と、フローリングと、ところどころ、まだ外されてないビニールの匂い。
天気の良い午後1時過ぎの太陽。まだ誰にも手をつけられてない新居。カーテンはまだ取り付けられていない。
出窓から、溢れんばかりに光が部屋へ注いでる。
『良いね〜』
後から入ってきた彼が満足そうに呟いた。
『うん。良いね!』
まるで嘘みたいな良い天気。窓の向こうの景色を見ながら、これからこの景色に見慣れるのかと、静かに小さく深呼吸した。
出窓の鍵を開けてみる。ザラザラとした細かい粒の感触がした。
もしかすると磨かれた時の粉かもしれない。新しい時にしかない感触なんだろう。
窓枠を掴み、指先に少しだけ力を入れる。新しい窓はまだ少し硬いみたい。最初だけ硬くて、勢いよく5センチ動くと、それからは嘘みたいに20センチ開いた。
新しい季節の陽気と風がフワッと部屋に入り込んだ。頬にすりつく髪が鬱陶しくて頭を2回だけ振る。あとは風が後ろへ流してくれた。
サッシを掴んで、右へ左へ。
ローラーの具合を確かめながら、右へ左へ、開けて締めて。
鍵を閉めて、窓のそっちがわへ視線を下ろす。
明るい陽の光が燦々と降り注ぐベランダがある。
窓のそっち側へ、想像で母を立たせてみた。
私と母の距離は、これくらい。
私の好きな時に鍵を閉められるし、好きな時に開けて良い。
嫌だったら締め出したって良いの。
ここは私達の家で、母の家はここじゃない。
この家は私の居場所で、母の居場所はよその家。
私には私の人生があるし、母には母の人生がある。
母にも、こうして新しい家に入った経験があるの。
母は、一度それをすでに経験してるの。
羨ましがるけど、それは母のただの嫉妬。
母はもう経験してるんだから。
私の幸せを、母も望んでくれる。
そうでしょ?そうだよね。
ぼんやりしてたら、『風呂場も良いぞ!』と声が聞こえた。
ポケットの中でスマホが震え始めてた。
きっと相手は母だろう。
母が呼んでる。
解っていたけど、無視をした。
『ほんとに?!』言いながら彼の元へと駆けてった。
ポケットの中は暫く震えてたけど、無視した。
『わ!本当だ〜!!』
2人の会話が浴室に響く。
一度だけしっかりと目を瞑って、彼に気づかれないようにコッソリ瞬きをした。
ほんの少しだけ、目が熱くなった。
私と母の距離は、あれくらい。
さっき想像した窓枠の向こうの母には、穏やかな陽の光が注いでいた。
さよならお母さん。
さよなら。
そこに佇む哀しそうな母を、想像の中で無理やり微笑ませた。
穏やかで暖かな陽の光の中にいる母に、とうとう私は別れを告げた。
私の人生は、私のものだよ。
諭すように、窓の向こうの母へ伝えた。
さよなら
心の中の私の声は、穏やかで、苦しくて、それでも明るかった。
さようなら。
End.