題目のような事について、書きたくなった。
だけどこれを表現するのはとても難しい。
それでも、私は誰かにそれを伝えたくなったので、書いてみる。
灰の中のダイヤモンド
ブログを書くようになって、私は私と向き合うようになった。
自分自身と向き合う手段の1つとして、ブログがあった、とも言える。
『自分自身と向き合う』と言う作業は、自分の中にある、数少ない『本物』を採掘する作業のような気がする。
灰だらけの中にあるニセモノたち、その中にある数少ない本物のダイヤモンド。
……なーんて、かなり乙女チックだが、これはももいろクローバーZの『灰とダイヤモンド』という曲の歌詞を思い出したので、ちょっと被らせてみたのだ。
さて、自分の中から発掘した本物の言葉は、私にとって『ダイヤモンド』なんて美しいものでは無い。
どちらかと言えば化石のようなイメージ。
もう何年も前の、何世代も過去のナニカを採掘し掘り当てたような感覚。
一見すると、それが化石なのかどうかすら解らないような、ゴミのようなものに見えるナニカ。
昔から知っていたような気もするし、初めて見たような気もする。
自分と向き合うと、勇気が湧いてくる。
自分自身を見つめなおし、懸命に自分自身と向き合い、ようやく見えてきたモノがある。
向き合う方法は、いたって簡単。
自分自身を分析するのだ。
自分が好きなもの、嫌いなもの、自分の感情。
なぜ好きなのか?どんなところが好きなのか?何のためにそれが欲しいのか?欲求からなのか、劣等感からなのか、本当にそれが欲しいのか?
本当に欲しいものは自信では無いのか?
本当に欲しいのは自慢できる見栄では無いのか?
寂しさを誤魔化すために必要なのではないか?
そんな風にどんどん掘り下げて、自分の感情に素直になり、本当に欲しいものを探す。
そしてようやく探し当てた、『根本』。
根本を探り当てる頃には、きっと自分でそのことを『受け入れる』勇気が付いているかと思う。
カッコ悪くても、ダサくても、汚くても、意地悪でも、私の中にあった紛れもない本物。
その汚い部分から目を逸らさずに、しっかりと見て、受け止めて、受け入れて、『こうゆう部分があるのだ』と頷く。
そして、根本の原因も考える。
なぜ汚くなってしまったのか?いつから怖いと思っていたのか?どんな出来事があったのか?
その出来事に、私は傷ついていたんだ、という事実。
大変だったね、つらかったね、と理解してあげる。
だから虚勢を張って生きてきたんだね。
目を逸らさなきゃ、潰れてしまいそうだったんだね。
恐ろしくなって逃げてきたんだね。
根本の原因まで分析できたら、今度は不思議と勇気が湧いてくる。
いや、勇気じゃない、これは自信なのかもしれない。
誰かに伝える
自分が見つけた根本それから原因のことを、今度は誰かに伝えたくなる。
伝えたくて、懸命に紡いだ言葉を一生懸命、本気で伝えようとする。出来るだけ嘘をつかずに、素直に、弱い部分をさらけだしながら、それでも伝えようと頑張る。
その、一生懸命伝えようと使った言葉たちは、紛れもなく、自分から出てきた表現。
それって、すごく大切なものだなぁと思いました。
誰かのうけうりじゃない、だれかが使ってた言葉とも違う、『自分の中にあった本物の意思』。
自分が辿り着いたその言葉は、もしかすると誰かの名言と似てるかもしれない。
芸能人のだれかが使ってた言葉と同じかもしれない。
もしかすると、母親が言ってた言葉そのままかもしれない。
でも、自分の中から探し当てた根本と、それを伝えたくて紡いだ『本物の言葉』は、自分にとっては全く別格の意味を持つ。
化石のような姿形をしたソレは、誰よりも自分自身に光り輝いて見えるタカラモノで、自信に満ちて、鈍くしっかりと光る。
その光はガラスのようなキラキラした美しさでは無い。
床に落ちたら割れてしまいそうな繊細な儚さじゃない。
ずんぐりと丸く、しっかりとしたカタチをしていて、ちょっとやそっとでは揺るがない、押しても引いてもビクともしない、そんな存在。
誰かの言葉があまりに入り込んできて、自分のことを言われてるようで苦しい。
意見は、似せないとダメなんだと思ってた。
同じ意見を言わないと敵にされると思ってた。
ちょっと話は逸れるが、これも伝えたいので書いてしまおうと思う。
同調圧力の話だ。
日本では同調圧力がとても強い。
『あの子の服、可愛いよね〜!』と言った子に同調しないといけないような無言の圧力。
私は先日『やりたいことリスト100』で『人の悪口を言わない』『誰かの悪口に同意しない』という旨の件を挙げた。
脳は、主語を認識出来ないらしい。
それが本当かどうかは解らない。
いや、一応、脳科学でそう分析?されてるらしいので、本当なんだろう。
しかし、なぜか私は、そんな訳ないと信じていた。
だけど、本当は解っていたのかもしれない。
小学生の頃、よく悪口を聞かせられた。
その悪口はどれも私にも当てはまりそうで、悪口を聞くたび『いや、ごめん、私もそうゆうところあるわ』と謝っていた。
友人は、『全然違うよー!あの子の話で、あなたは良いの!!』と言っていた。
その時私は『そうなのかなぁ』と思いながら、しかし何度もそれを繰り返すもんだから、『そうゆうものなんだな』と理解した。
そして、『そうなんだぁ』と相槌を打つようになっていった。
そして、いつのまにか、私の中の私は、たくさん虐められていたのかもしれない。
『赤ちゃんカワイイ!』と言う友人に同調しないと『赤ちゃんカワイイって思わないの?変なの!変わってる〜!おかしいんじゃない?!』と非難される気がした。
『アイツいっつも変な服ばっか着てるんだよ〜臭そうだよね〜!』という、事実と想像が混ざった非難。
同意しないとたちまち『お前もヘンだ!!』と烙印を押されて、翌日からは自分が対象にイジメが始まるかもしれない恐怖。
私自身は、虐めを受けていた事はない。
いや、もしかすると受けていたのかもしれないが(笑)、私は私で私の好きなことを好きなように発言したかったから、あんまり沢山の人とは一緒に過ごしてなかった。
仲が良いのは大抵ひとりかふたりで、その子とだけ密に会話を重ねていた。
かと言って他人を貶すことも好きではなかったし、自分に嘘をついてまで人と合わせたくなかった。
いつからか『女の子らしい』ものを捨て、『男の子っぽく』振舞う事で、クラスメートの女の子達とは違うポジションを目指していた。
同調しなくても怒られない、同じ意見を言わなくても『おまえは敵だ』と言われない、『変わってる』『おかしい』と言われない、そんなポジションを目指した。
標的にされないようにしていた。
目立たないようにしていた。
『女らしくなんてありませんよ』と女の子にアピールしていた。
私が今も『女らしく無い』のは、ターゲットにされるのが怖いからだと思う。
狙われたくも無いし、争いたくも無い。
面倒だし怖いし、どうせ負けちゃうし、勝つためには誰かを負けさせないといけないし。
誰かを負かすのは私には重荷だ。
『おまえの負けだ!』と指をさし土下座させて降伏させるなんて、私にとってはダサい。
偉そうなフリも勝ったアピールもカッコ悪い。
相手を傷つける勇気なんて私には無い。
戦わなきゃいけないくらいなら、両手を上げて最初から降伏する。
『みんな違ってみんな良い』で良いじゃないか。
なんでそんなに争うの?どうして比較しようとするの?
なぜ勝ちたがるのか解らない。
勝って誰かを降伏させても、自信なんて手に入らない。
自信は自分の中にしか無い。
誰かに勝ったって身につかない。
私はそう思う。
同じじゃなくても、手を繋いで歩ける
だんだん話が逸れてきてしまった。
私が言いたいのは、戦わなくたって良いじゃないってこと。
『意見が違くても、良いじゃない』ってこと。
日本は、とかく『議論がこわい』人種だと思う。
無理矢理にでも議論したがるのはそれはそれでどうかなーと思うが、日本ではどうも『議論イコール敵』と言うスタンスが主流だと思う。
反対意見=敵
なのか?
同意しない=戦争
なのか?
同意しなくたって良いじゃない。
意見が違くたって良いじゃない。
賛成しなくたって、手を繋いで歩いて行こうよ。
賛成しないからって、手を振り切って逃げ出さなくても良いでしょ?
意見が違うからって、無理矢理捩じ伏せて同意させたくなって良いじゃない。
意見が違うからって、虐めなくたって良いじゃない。
意見が合わないからって敵だなんて私は思わない。
だけどその考え方は、お互いそう思ってないと成り立たない。
私の中から発掘した、私の言葉は大切なタカラモノで、私にとってキラキラ輝く『想い』。
だけど、私の言葉に同意しなくても良いんだよ。
私のやり方を真似ようとしなくて良いんだよ。
私とひとつになろうなんて思わないで。
それより私は、あなたが見つけた、あなただけのタカラモノの言葉を聞きたい。
他人なんて関係無い。
わたしはわたしと、あなたはあなた自身と向き合って。
誰かの言葉に同意することがコミュニケーションの全てじゃ無い。
誰かの言葉が刺さって痛くなるほど、自分の事を言われてるんだと思わなくて良い。
私は、私の中にある私自身の言葉を紡いでいきたいと思った。
おわり。