本物の思いやりとは何ぞや?
『思いやり』ってめちゃくちゃ難しい。
唐突にそんな事を考え始めた。『思いやり』の境界線って、ものすごく難しい。
・思いやりって〝優しい〟ってこと? と言えば、そうでは無いと思う。
・相手を手伝う?
・お金を払う?
思いやるって、なんでもかんでも『こうだったらこう!』と決められない。
例えいっけん良いことのように思えても、それは思いやりじゃないかもしれない。
例えば
・〝おばあさんが〟重たそうな荷物を持って階段を上がっているのを見たとき、助けてあげるのは思いやり?
・おねえさん ?
・おにいさん ?
・おじさん ?
・マッチョの人 ?
これ、ぜんぶ『そうだよ!それが思いやりだ!』と思ったひとはどれくらいいるだろう?
これはどれも正しく思いやりだと私は思う。(助けた後どうなるかとか、下心があるとかはまず一旦おいておいて。)
もし同じシチュエーションに出くわしたとして、実際に助けてあげる人はどれくらいいるだろう??
『おばあさんだから手伝わなくてイイヤ』とか、『マッチョだから手伝わなくていいや』と、意外と助けない人も多いんじゃないだろうか。
そんで今度は、〝どうしても忙しくて〟助けなかったとしたら、思いやりが無い人になってしまうのだろうか?
思いやりの境界線ってかなり難しい。
ちょっと話は変わるが、『思いやり』とよく似てるもので『偽善』をふと思い出した。
『偽善』も、すごく難しい。
たとえば、ヤフー知恵袋でおもしろい質問を見つけた。
『誰か、僕を、論破してください。「偽善」の、何が悪いんですか??』
スレッドを見れば解るのだが、多方面の切り口から回答する色んな人がいる。
〝偽善は良いのだ〟と言い切る人。
偽善は良くない
場合に寄る
『正しい答え』はどこかにあるのだろうか?いや、けっきょく正しい答えなんて無いのかも知れない。
考え方はひとそれぞれで、皆の考え方を統一するのは無駄だろう。今まで生きてきた経験や環境に影響されて、皆いろんな事を考えて辿り付いた『考え』があるから、きっとどれも正しいのかもしれない。誰かに取っては間違ってるのかもしれない。
それで、ふと思った事がある。
たとえば、自分が選択した答えはどんな事でも良い。
ただ、『相手のために』と考えて、『きっとこうすれば相手のためになる』と『悩む』ことがいちばん大事なんじゃないかと。
善も偽善も、思いやりも、された相手がどう思うか?
『する側』じゃなくて『される側』には、ハッキリとした答えが待っていると言う事。
役に立つから良いだろうとか、喜ぶから良いだろうとか、自分が嬉しいからしたいとか、そうゆう事でもなく、ただ、『相手に自分の内面を透かされるかもしれない』事実があると言う事。
内面を透かされて見られた時、たとえば相手が怒ったとして、悲しんだとして、喜んだとして、どんな態度だったとしても『受け入れる』ことなのかも知れない。
相手のことを思いやって、だけど『わたしはこうする』と自分の意志で動くと言う事。
相手のことを思いやったけど、あくまで自分が決断した、自分の責任であるということ。
思いやりとは、相手に評価される可能性があると言うこと。
思いやりとは、相手がどんな態度をしても受け入れられるか?と言う事。
つまり、押しつけないと言うこと。『ぜったい喜ぶだろう』と決めつけないこと。
『喜ぶと思ったのに何だよ!』と怒るのは、それは思いやりでは無いんだろう。
『思いやり』ってめちゃくちゃ難しい。
『思いやり』の境界線って、ものすごく難しい。