足りないピースは気になるはずだ。/ジグソーパズル
例えばジクソーパズルのピースをひとつ失くしたとする。
すると、なかば強制的にそのピースを想像してしまうだろう。
青空の絵、欠けたピースなら青空を。
誰かの顔なら、欠けたその頬を。
300ピースあるうちの1ピースだけが欠けたなら想像しやすい。
しかし、もし完成されていたならばどうだろう?
完成されたジグソーパズルの絵が一枚、壁に掛けられていたらどうだろう。
綺麗だなぁ、と思うかもしれない。
へぇー、だれかジグソーパズル好きなのかな、と思うかもしれない。
でも、そこから発展させるようなナニカは思わないんじゃないだろうか。
例えば『そうじゃなくて、こんな絵だったら』なんて想像したりはしないんじゃないだろうか。
完成されているものに手を出す余地は無い。
完璧なモノは美しい。
完璧なモノは、感動を与える。
感動は納得で満足だ。
満足とはつまり『お腹一杯』の状態で、それはもはや『もう要らない』と言う事だ。
眺めて心穏やかな気持ちになるかもしれない。
あるいは充足感を味わうだろう。
そこにあるのは完璧なモノの場合、それを『保存したくなる』のでは無いだろうか。
誰にも手を触れさせないように、鍵をかけるかもしれない。
傷つかないように隠してしまうかもしれない。
すでに完成仕切っている場合、『もっとこうしたい』という欲求は生まれづらい。
どちらかと言えば『守ろう』とするのでは無いだろうか。
創造を産むのは『中途半端な時』だ。
中途半端。
『物足りない!』『なんか違う!』『なんか惜しい!!』
そんな感情が生まれた時に創造は始まる。
『もっとこうすれば』
『ここがああなら…』
『もしあんなふうになれば』
足りないピースを想像しやすい時、自分の考えを乗せて気持ちを昇華させる。
その時が一番気持ち良いのかもしれない。
足りないピースを埋めた時じゃ無い、『きっとこんな絵が描いてあるピースだ』と想像してる時が、一番幸せなのかもしれない。
だからもっと、『未完成』を出していこう!
未完成は恥ずかしい。
完璧じゃ無いものはキタナイかもしれない。
だけど案外ひとは、未完成で恥ずかしくて、中途半端でキタナイ物が見たいのかもしれない。
それは多分、未完成だからこその、中途半端だからこその『てざわり』なんじゃ無いだろうか。
ザラザラかもしれない、フワフワかもしれない、ツルツルかもしれない。
そんな『手触り』の中に見いだした『ほころび』、
つまり『キタナイ継ぎ目』にも、人は価値を映せるんじゃないかと思う。
それはきっと、多くの人の『想像』を抱え込んで飛んでいく。
多くの人の『夢』を抱えて羽ばたいていく。
未完成だとしても、相手に渡せる価値はある。
完璧じゃなくても、夢を見せられるのだ。
だから、もっと未完成なモノを作ってしまおう。
完璧じゃないものを見せてしまおう。
相手に渡せる夢があるのだから。