受験シーズンで、塾の広告が目立つようになって来た。
私は受験をした事がない。
いや、受験はしたのだが、推薦で『頭の良さ』を求められなかったので、受験勉強をした事がない。
ひいては、『一生懸命』何かに取り組んだことがない。
それは、一生懸命やらなくても生きて来れたから……では無く、『頑張らなくても良い道』を選んで来たから。
そして、『頑張らなくても良い道』を選ぶだけの一生を過ごす人もいるんだと感じる。
それが良いかどうかは『その人の哲学』によると思う。
私は今、31にもなって自分自身が良く解らない。
勉強で泣いたことがある
そんな一生懸命何かに取り組んだことのない私は、そのまま31歳になった。
何かに一生懸命取り組んだ事がないのは何でだろう?
勉強への取り組み方について、振り返ってみることにする。
学生は勉強するのが当然だとは思うが、両親に『勉強しろ』と言われた事はほぼ無いと記憶する。
どうやら両親は『勉強しろと言わない』と決めたらしい。自分たちが散々『勉強しろ』と言われたから、反面教師になったようだ。
世間一般の人は、勉強をしていて泣いた事はあるのだろうか?
私は『ある』。それが普通だとも思っている。
受験で一生懸命勉強して…という理由では無い。
小学生の頃、夏休みの宿題をギリギリまで放っておいて、最終日は泣きながらやった。中学生の時、テスト勉強の時に一回泣いた。
どちらも『なんで勉強なんかしなきゃなんないんだ?!』という感情しかなかった。
夏休みの宿題は結局間に合わなかった。が、学校へ行くと意外にも、提出期間は伸びた。
おそらく先生も、夏休みの宿題を回収して『やって来なかった人に罰を与える』という方針では無かったんだろう。
今になって思うが、夏休みの宿題ってのは、『初めて自分と向き合う機会』になるのかもしれない。
泣くのは一生懸命だったから
泣くほど嫌だったけど、あれはやはり頑張ってやるべきだったかもしれない。
いや、宿題を絶対やらないといけないとは思ってないし、勉強じゃなくて良いと思う。
一番大事なのは、『一生懸命取り組みたい』と思えることがある事。
『嫌でもなんでも、やらないといけない』と自分と向き合い、どうにか乗り越える事で、他の事にも一生懸命取り組めるんじゃないかと思う。
私は今、それなりの生活をしている。
でも、『本気でやりたい事』があるかどうかで言えばよく分からない。
それは、『泣くほど一生懸命』だったことがないから。
免罪符の『夢』
泣くほど一生懸命になったことはあまりないが、国語の点数は良かった。算数はあまり良く無かったが、時々赤点をとっても特に問題はなかった。
私は母親に良くアドバイスされた。
将来はどうなりたいかとか、何の職につくかだとか。
昔私は漫画家になりたかった。絵を描くのが好きだったからだ。
漫画家になりたい、と母親に発言した時は、『そんなのやめなさい』と言われ、そうして『将来何になりたいか』を問われた。
次第に母親の求める夢しか受け付けてもらえないのだと気づいたんだろう。自分でも知らず知らずのうちに母親の求めるものを目指すようになった。
最終的に、漫画家という夢はファッションデザイナーという夢に訂正された。
こういったことは、おそらく私が赤ちゃんの時からあったのだろう。『親の求めるものを目指していた』と気づいたのは最近だ。
そうこうしてるうちに私は私の『好きなもの』が良く分からなくなり、『自分の感情』がわからなくなっていった。
人の顔を読んで求められる返事をするのが上手くなっていった。自分の感情を出すより先に、相手の希望を把握するようになっていった。
母親の望む通りにする事が親孝行だと思っていた。
大事なのは、自分と向き合うこと
私は今、自分探しの旅に出ている。
旅と言っても、日本一周だとか世界一周だとか、そーゆーものではない。
自分探しの旅というのは、自分と向き合うことなんだと思う。
自分の好きなものを見直して、それのどんなところが好きなのか、なぜ好きなのかを掘り下げて考える。
自分の嫌いなものを見つけて、なぜ嫌いなのか、それに対してどう対処しているか考える。
その一番最初のキッカケになりえるのが『勉強』なのかもしれない。
懸命に向き合うキッカケになるものが『受験』なのかもしれない。