365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

怒りに引きづられていつまでも思い出してしまう。①じぶんのきもちに世間の『正義』は関係ない。

怒りに引きづられていつまでも思い出してしまう!!

短気だった。だけど怒りはずっと押さえ込んでいた。

私は短気だ。めちゃくちゃ短気だ。

だけど怒ってばかりでは仕方がないと、出来るだけ『怒り』を表に出さないようにしてきた。

と言うか、『怒り』をどう表現したら良いか解らなかった。

過去を思い起こしてみても、自分が怒った時の記憶は1回くらいしかない。

短気なくせに、どう表現したら良いか解らない。表情や態度にも表れない。周りからすると、矛盾に思えるかも知れない。

『表情や態度に表れないのに短気って、どうゆうこと?』

感情を露わにし、『怒ったぞ!!』と全身全霊で表現できるひとには、意味が解らないかも知れない。

確かに私は怒っている。

怒っているけど、表現出来ない。

いや、自分が怒っているのだと気がつかない。

心の中になんだかいつまでもモヤモヤがあって、その時の状況や言われた言葉を思い出して、何度も何度も思い出して、それでようやく『理不尽じゃないか?!』と怒りが湧いてくるのだ。

数時間、あるいは数日経ってから『なんであんな事を言われなきゃいけないの?!』とフツフツ怒りが湧いてくるのだ。

短気と言うのは、例えば道を歩いている時。
通行の邪魔になるような場所にいる人に対してイラっとする。『邪魔だなぁ!』『なんでそんな場所にいるのか?』『もっと人の事を考えろ!』そんな風に心の中で言っていた。

それが当たり前だと思ってたし、皆もそうなんだと思っていた。

昔は自分自身の怒りを見ないふりして空想などして、自分自身の気を逸らして生きてきた。

しかしそれでは何の解決にもならない。

私はようやく自分の感情と正面から向き合う事にした。

なんども思い返して、いつまでもしつこく怒ってる自分

自分の感情と正面から向き合う事にしたら、今まで知らなかった自分の性格などを知りつつある。

例えば『いつまでも思い返して、感情をひきずって怒っている』ということ。

感情と向き合うようになってから、少しずつ自分の感情に敏感になってきたように思う。

モヤッとしたときは、怒ってるとき。

そんな事にも気がついた。

感情に敏感になってくると、うれしいとか、かなしいとか、たのしいとか、むかつくとか、そんなことにもすぐに気づけるようになってきた。

きっと『自分の感情に気づく』リハビリになっているのだろう。

そんななか、ポジティブな感情はプラスなエネルギーがある気がして『しあわせ』だと思う。

問題はネガティブな感情だ。

ネガティブな感情は言うなればマイナスのエネルギー。
一度ハマると、いつまでもどこまでも、際限なく怒り続けたり、恨んだり、悲しくなったり、哀れな気持ちになってしまう。

人間、まあそうゆう時もあるだろう。

そういった感情を爆発させて、泣いたり、怒ったり、すれば、ストレス発散にもなるし必要な事だと思う。

ただわたしの場合は、なぜかネガティブな感情ばかりに囚われて、いつまでもしつこく怒り続けてしまう。

じぶんが怒りの感情に支配されているみたいに。

なんでこんなにしつこく怒ってるんだろう?

なんども思い返して、いつまでもしつこく怒ってしまう。

『なんでこんなに怒ってしまうんだ?』

ある時とつぜん気がついた。

怒るのはしかたがないこと。それにしたってそんなに怒るひつようがあるだろうか?

なんでそんなにもしつこく怒るんだろう?

ネチネチいつまでも考えてみても、ストレス発散どころが怒りは増していくばかり。

みずからストレスをふやしてしまうのは何でだろう?

それにはさまざまな理由があった。

今までじぶんの感情がよくわからなかったから、

・このモヤモヤはなんだろう?
・どうしてこんなにモヤモヤするんだろう?
・わたしが悪かったんだろうか?
・あいてに非はなかったのか?
・わたしの行動はただしいはずだ

こんなことを考えて、ひっしに『おこるのは正しい!!』と思いたかったのだと思う。

心のどこかで、
『正しくなければ怒ってはいけない』=『わたしが悪い』
『わたしの行動はまちがってなかった』=『怒ってもいい!』
と思っていたのだ。

いちばん重要なモノを正義だと思い込んで、誰からみても『あんたが正しいよ!怒って当然だ!』といわれたかったのだ。

じぶんのきもちに世間の『正義』は関係ない

いちばん重要なモノを正義だと思い込んで、誰からみても『あんたが正しいよ!怒って当然だ!』といわれたかった。

世間からみて『良い人』になろうとしていたのだ。

だれが見ても『あんたが正解!』と言ってほしかったのだ。

世間に認められたかったのだ。

だけど、じぶんのきもちに世間の『正義』は関係ない

なぜなら、自分のきもちは、じぶんにしか解らないから。

じぶんが怒っているからと言って、悲しいからといって、くるしいからといって、世間は助けてはくれない。

都合よくあらわれて『きみは悲しいんだね。正しいよ!だいじょうぶ!』なんて言ってくれないのだ。

いつでもどこにいても飛んできて、『ぼくは味方だよ。だってきみがいつも正しいのを知ってる』なんて言ってくれないのだ。

じぶんがかなしいとき、くるしいとき、つらいときにいつでもどこでも一緒にいるのは、じぶんだけなのだ。

じぶんがじぶんの気持ちに正直になって、感情をあらわすもあらわさないも、おしころすも、じぶんが決めたこと。

じぶんの感情をないがしろにするのも、尊重するのも、まず最初はじぶんなのだ。

じぶんがじぶんの感情をないがしろにしてたら、そりゃあ当然ストレスもたまる。

じぶんでストレスをふやしていたのだ。

じぶんのきもちに、世間の『正義』は関係ない。

……こうして書いていたら、ちょっとずつ怒りが収まってきた。

言いたい事がうまくまとまらない。

きょうはここまで!

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