365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

何歳までアイドル?/アイドル論

友人に、〝何歳までアイドル?”と質問された。〝アイドルは年齢じゃない〟と答えた。

今日、たまたま友人達とそんな会話をした。

このブログでも公言していたような気はするが、改めてここで宣言しておこう。私はアイドルが好きである。

通称〝ドルオタ〟(アイドルオタク、の略)だ。

しかし昨今に多いタイプのDD(誰でも大好き、の略)では無いと記しておく。

アイドルは年齢じゃない。


〝昭和の頃にアイドルだった人は、今なんて呼ばれるの?〟

と聞かれ、

〝テレビ的には元アイドル
ファンにとってはいつまでもアイドル〟

即レスでそう答えていた。

もはや無意識に近い。

あまりにすんなり出てきたその一言は、自分の深層意識を表してたのだと思う。

実はアイドルについてブログを書こうと何度も試みたが、どうにもまとまらず手が止まっていた。

ひとりで悶々と考えるよりも、余程まとまった自分の考えな気がした。

自分の無意識に出た言葉をキーワードに、私が思う〝アイドル〟を書いていこうと思う。

アイドルとは〝偶像〟であり宗教だ。


そもそもアイドルとは何だろうか?

〝若くて可愛くてもしくはかっこよくて魅力的な人〟とwikiでは記述されている。(2018年1月現在)
wikiより

まさしく〝アイドル好き〟な自分にとって、それは必ずしも正解では無い。

アイドルとは宗教だ。

と私がそう言うのは、アイドルという語源にある。

アイドルとは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を意味する英語「idol」に由来し[1]、文化に応じて様々に定義される語である。
wikiより

アイドルとは偶像。
偶像崇拝、という言葉がある。
偶像崇拝(ぐうぞうすうはい、英: Idolatry)とは、偶像を崇拝する行為である。

偶像という語には「人形」「人間に似せた物」などいくつかの意味があるが、ここでは木材や土、金属など具体的な物質で形どられた像のうち宗教的対象をかたどったものをさす。
wikiより

偶像、つまり中身の人間が演じる〝偶像〟なのである。

偶像を信じる限り、信者なのだ。
アイドルを信じる限り、ファンなのである。

アイドルのルール


アイドルにもルールがある。
メジャーなのは〝恋愛禁止〟などだ。
勿論アイドル側にもルールがあるが、ファン側にもルールがある。

それは大抵の場合、他の人への配慮である。自分勝手に応援してはいけないのだ。
他人の信仰の邪魔はしない、というのが大まかなルールだ。

コンサート中にウチワは胸の高さよりも上げてはいけない。これは、後列の人への配慮である。

ファンとして追うには、信じ、規律を守り、お布施を支払う。

そして信じるにあたりお布施の概念は決まってない

ある人にとっては〝時間〟がお布施となり、ある人にとっては〝お金〟(売り上げ)がお布施となる。
ただし宗教を継続させるために現実問題として〝お金〟は必要である。
ファンは、この〝お金の価値〟を解った上で支払う傾向にある。活動を発展させたい、あるいは活動を継続させたいという理由で時にCDを買い、雑誌を買い、グッズを買う。

私の〝アイドル論〟としては、
〝アイドルのルール〟を知った際にアイドルへの信仰が始まるように思う。

宗教に関してだけで言えば、人類は3種類に大別すると言える。

・宗教を信仰する人間は信者に。
・宗教に疑問を抱いたものは哲学者に。
・興味の無いものは、傍観者である。

どれが良いとか悪いとか、そうゆう話ではない。
そこにそれぞれの宗教があり哲学があるのだ。

アイドルの終わりは?


偶像とすると、アイドルはいつ終わるのか?
その答えも、まさしく宗教と同じだ。
信仰を続ける限り、その人にとって〝アイドル〟で、信仰を終えた時に〝アイドルは終わる〟。

信じる限り彼ら彼女らはアイドルで、信じることをやめた時、アイドルは終わる

過去にしてしまった時にアイドルは終わるのだ。

アイドル好きを公言するメリット


私は会社でアイドル好きを公言している。
好きなグループについては特に率先して発言している。

アイドル好きを公言すると良いこともあれば悪いこともある。

公言するデメリットは、ある。

それでも私が公言し続けるには理由がある。
彼ら彼女らの認知度を上げたいためである。

これも一種の〝お布施〟と言えるかもしれない。

公言していることにより時には余計な言葉を掛けられる事もあるが、少なくとも認知度は上がっているようだ。

事実、名前も知らないはずだった上司がグループ名を覚え、その文字を見れば思い出してくれる。

いつのまにか彼ら彼女らの顔を覚え名前を覚え〝こんな看板があった〟〝こんなチラシが置いてあった〟なんて画像を送ってくれるようになったりする。

ただし、このお布施はある種の博打的な問題を孕む。
それは、他の趣味を公言するよりもずっと、アイドルを通して〝私自身〟も見られているという事だ。

私が悪いことをすればそれは同じく好きなグループも批判されかねないのである。

一方、そこまで考えられる人間ならば、
必然的に悪いことはしづらい(しないように心がける)
というメリットはある

会社で、いつだか上司に〝アイドルなんて〟と否定的な事を言われたことがある。

彼の趣味と言えば〝ロック〟であり、デヴィッド・ボウイは好きだったと言った。

デヴィッド・ボウイが好きだったと言った上司


デヴィッド・ボウイ
私にとってそれはまさしく〝アイドル〟で他の何者でも無い。

そこで〝それこそアイドルです〟と言えたら強いのだが、酒の席でも無かったし、温和な空気のまま終わらせたかったのでその場は適当な相槌を打った。

懐かしむような優しい目でデヴィッド・ボウイの画像を検索して見せてくれた。

その眼差しから終わった宗教なのだと思った。いや、もしかしたら〝神格化〟された過去の記憶かもしれないが。

〝アイドル〟という宗教にハマる人、ハマらない人


アイドルは宗教だ。ハマる人とハマらない人がいる。

信仰するもしないも自由なので、正解は無い

アイドルに興味の無い人を批判するつもりは無い。

しかし、ハマる人とハマらない人には大きな差があると感じる。

その差が何かと言うと、今はまだハッキリとは言えない。これについては、まだ自分自身考えている最中だ。

---スポンサーサーチ---

次へ 投稿

前へ 投稿

© 2024 365文

テーマの著者 Anders Norén