365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

泣く子を見て自身を振り返る

ぎゃーと泣く子供がいる。

子供は泣くのが仕事だと言う。

時としてその金切り声は、聞いてるこっちが滅入ってしまいそうな程の声だ。

とんでもない程の奇声をあげる子供もいる。

何を言ってるかは解らなくとも、『いやだ!!!』と言う感情はハッキリ解る。

なにがそんなにイヤなのか。なにがそんなに奇声を発するほどストレスなのか。

あまりにもイヤラシイ甲高い声には、全力の『イヤだ!!!』が込められているよう。

大人になった今、そんなにまっすぐ相手から感情をぶつけられる事はまず無い。

だから、聞いてるこっちが驚いてしまう。

相手が同じ大人であれば、無視も出来るだろうし関わらないように避ける事も出来るだろう。

しかし子供にそんな大人のルールは通じない。まっすぐ相手へ感情をぶつけてくる。

私自身そこまでハッキリと相手へ感情をぶつけることは、子供であってもしなかったと思う。

親に聞けば、大人しく静かで育てやすい子だったと言う。

なるほど。となると性格の問題か?

小さい頃から自分の感情を相手へぶつける事が苦手だったのかもしれない。

私自身おとなしい子供だったからか、何がそんなにイヤで子供が叫ぶのか良く解らない。

友人に聞いてみると、友人は小さい頃から自己主張が激しく、うるさい子供だったそうだ。

なぜあんなにも嫌な声を出すのか聞いてみた。

『言いたい事があるけど言葉が解らなくて伝えられない、だから泣くしかない。』

なるほど言われてみれば確かに、伝えたい事があるのに伝えられないもどかしさがあるからこそ、あんなにも嫌な声になるのだな。

朝早く、友人と一緒にお茶を飲んでいたのだが、10分もすると用事があると、そそくさと出て行ってしまった。

もう少しゆっくりと会話をしていられると思っていた私は、ガックリしてしまった。

去る友人の姿を眺めながら、ぎゃーと甲高い声を出したくなった。

ああ、私も言いたい事がうまく言えなかった時に、ぎゃーとでも泣き自己主張できたら良いのに。

しかし大人だから、ぎゃーと泣く訳にもいかない。

いや、そんなのお構いなしにギャーと泣けば良いのかもしれないが、残念ながらそんな勇気はない。

大人になると言うことは、自分の言いたいことをきちんと言葉にして伝えられると言うことなんだな。

自己主張しないからと言って、何も感じてない訳ではない。

そんな私は、私なりに感情を伝える練習をするのが良さそうだ。

私はまだまだ、子供なんだろう。

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