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365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

『何でも出来る』は『なんにもできない?』器用貧乏のはなし

『何でも出来る』は『なんにもできない?』

私は器用貧乏だ。自分で言うのもなんだが、そうだと思う。

自覚は無かったが、いちど上司に『お前が何でも出来るせいだ』と言われたことがある。

そのときは『わたしのせい』で『収拾がつかない』状態になってしまった(らしい)。

そう言われてわたしは『たかが部下のひとりなのに、そんな事を言われても』とこまってしまった。

が、こまったと同時に『わたしってなんでも出来るんだ』とヘンな自信がついた。

わたしは褒められるのが苦手で、だれかに褒められてもすぐ『そんなことないです』なんてすぐに謙遜してしまう。

謙遜するのは相手にとっては気持ちがよいだろうが、本人は自信を挫くことになる。

つまりわたしはいくら誰かにほめられても受け止められず、延々と『自信がない』ループを繰り返していた。

そんなわたしに響いたのが、皮肉なことに『おまえのせいだ』と責められた言葉だった。

『誰かに迷惑をかけてしまうほどって、すごいな』とひねくれた感覚のわたしはなぜか自信がついた。笑

『器用になんでもこなせる』ことについてだけは自信をもってよいことなのかもしれない、と思った。

わたしは誰かに頼りにされたり『そんなことも出来るの?』と驚かせるのが一番うれしいかもしれない。

なんでもできる、は良いことだと思っていた。しかし!最近になってわたしは思う。

『なんでもできる』って『なんにもできない』と同じなのでは?ということ。笑

『なんでもできる』は『なんにもできない』と同じ?器用貧乏

なんでもできるっていうのは、相手にとっては嬉しいポイントのひとつかもしれない。

『あぁ、こんな事も出来るのか』『そんな事も出来るのか』と喜んでもらえるのは嬉しい。

でもだんだん『じゃあこれもたのむよ』『じゃああれもしておいて』『ついでにこれも』とやることが増えていく。

使われる身としてはありがたいことである。なんでもできる、は武器になると思う。
頼みやすい、というのも結構だ。

しかし徐々に『なんでもやさん』になっていく。なんでもやさんは良いコトかもしれない。

しかし悲しいかな、日本ではそれを『雑用』と呼ぶ。

『雑用』をこなす人に対して『雑用代』は払われない。

つまり技術のひとつとして認めてもらえてはないのだ。

確実に居たらありがたい存在であり、使い勝手の良いコマであるにも関わらず、対価は支払われないし見下されてしまうと思う。

すくなくともわたしはそう感じていた。だんだん『あいつに言えばいいや』的存在になっていってしまうのだ。

『パシリ』みたいな扱いになっていき、『都合の良い存在』になっていく。

気付けば『なんでもできるひと』は『なんにもできないひと』になっていくように感じた。

扱いづらい人のほうが大切に扱われる謎

なぜかわからないが、基本的に『扱いづらい人のほうが大切に扱われている』と感じる。

使い勝手の悪い人のほうが尊重される。

なぜってやっぱり面倒だからだろう。事なかれ主義が多いから。

いちいち『この仕事もやってくれよ』と伝えるのが面倒。いや、伝えるのは良いが、そのあと面倒なことが起きると思って気が重くなる。仕事で波風を立てたくない。

だからこそ扱いづらい人ほど尊重されていき、使い勝手の良いひとの価値が見過ごされていく。

結果的に、扱いづらい人の希望が通りやすくなり、扱いづらいひとはどんどん得意分野を伸ばしていけるのかも知れない。

『使い勝手が良い』ことに対価は支払われず、さらに『なんでもや』として機能してるから『色んな仕事がくる』ことになり、結果として『特化した技術がない』ことになっていく。

自分の存在価値ってなんだろう?

結局そうゆう状態がいやになりわたしは辞めたのかもしれない。
なんでも屋はイコールなんにもできない人。

ある日はたと気がついて、『なんでも出来ると思ってたけど実際わたしはなんにも出来なかったのかもしれない』と立ち返る。

便利な小間使いは実は簡単に替えが効く。替えが効かないとして、大勢のひとへすこしずつ分担すれば何の問題もなく会社が動いていく。

自分の存在の替えが効くと気がついてしまったとき、『わたしの存在意義は・・・』と自分の価値を考える事になった。

『ああ、わたしはこれから一体どうやって生きていこう』

『わたしはわたしの存在を尊重されたかったのかもしれない』

『仕事の質なんかよりもただ必要とされたかったのかもしれない』

『わたしはこれから生きていけるんだろうか?』

わたしのなかで何故かとてもおおごとになってしまった。
なんでも屋ではもう満足できない。
ほんとうに自分がなんでも屋だったなら、いっそひとりでもなんでもこなして生きていけるのでは?

・・・まぁさすがにそれは自惚れだと自分で思うが、とにかくわたしは『もう会社辞めたい』病にかかってしまったようだ。

そうしていま、まだダラダラと自分の人生を見つめ直しながら、立ち止まっては周りを見渡し、少し戻っては考え直して、歩き出しては振り返ることを繰り返している。

もっと面白がって生きていきたい

ついさきほど、わたしの大好きな『しいたけ占い』の下半期が公開された。(※LINEで友達追加した人だけが先行で見れる)

それを軽く読んでみて、『テンションの上がることを』といったキーワードが目に入った。

たしかに、『テンションが上がる』をポイントに置くとわかりやすいのかもしれない。

わたしは好奇心が旺盛なせいか、いろんなことに興味がわく。『あれも楽しそう、これも楽しそう』『でもめんどくさそう、大変そう』そうやって『興味はあるけど、う~ん。』といつも品定めしてしまうクセがある。

なおかつ優柔不断でもあるわたしは『どうしようかなぁ』と悩んでしまい、自分が好きなもの嫌いなモノがいまいちよく解らない。

わからないということは好きではないのでは?と自分のコトながら迷宮入りする。笑

そんなわたしには『面白がること』を重点におくとよいのかもしれない。

『テンションがあがるか?あがらないか』
『自分の嫌いだったものだとしてテンションがあがるかどうか?』

そういえばわたしはときどき、『面白さ』だけでメニューなどを選ぶ時がある。

嫌いなモノがはいってたとして『面白そうじゃん』と言って決める。

『面白がること』を目的に選ぶことを同居人はとても嫌がる。

『キライならやめなよ』

『なんでそんなふうに選ぶの?』

そう言って(または発言しなくても)嫌な顔をされると、がっくり来てしまう。それこそまさにテンションが下がる。

『面白いんだからイイじゃん!』と思うが、

『それで残すとかサイアクだよ』と言われる。

まったくまっとうな意見であり、そのとおりだと思うから『そうだよね~』といって辞める。

わたしの楽しみたかった気持ちは拡散されてバラけて散っていく。

面白がりたかったわたしと、つまらない暮らしに戻っていくわたし。

果たしてどっちが楽しかったんだろうか。

果たしてどっちが人としてまっとうだったんだろう。

そんなちいさなことでくよくよ悩み、わたしはまた優柔不断を発揮していく。

いや、もしかすると優柔不断な訳ではないのかもしれない。

『それって人としてどう?』とストッパーを掛けているだけなのかもしれない。

おわり。

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