365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

『ふつう』の呪い

相手を自分の思い通りにうごかしたいとき、どうするだろう。

私が思うに、人はとかく『誰かと一緒』に安心するものだと思う。

なぜ『誰かと一緒』があんしんするのか?

『誰かと一緒』を違うことばで表現するなら『同化』だ。

だれかと一緒になろうとするが、ほんとうの意味では一緒にはなれない。似せることはできてもカンペキに同じになることはできない。

たとえば考え方も、似せることはできても根本的には異なるばあいが多い。

育ってきた環境が違うから考えも違うし、感じることもちがう。生まれてから今までにあった出来事、成功体験もトラウマもぜんぜんちがう。

それでもひとは『誰かと同じ』に安心する。

カンペキに同じじゃなくても良い。似ていれば信頼できる。姿を似せてまねをする。つまり擬態だ。

動物も虫も、攻撃から身を守るために擬態する。自衛のために姿を似せ、動きを似せ、声を似せる。

自分の身を守るために簡単な手段のひとつが擬態だ。

おおぜいに似せれば似せるほど安心感が増す。

たくさんの中にまぎれることが出来れば、それだけたくさんの中から自分を捜し当てることは難しくなる。

たくさんの中に紛れ込んで判別しにくくする。たくさんの人が集まれば『おおぜい』と言う名のひとくくりに認識されるようになる。

そこに個は必要ない。『おおぜい』であり『たくさん』。誰かと誰かと誰かの集まり。

ひとくくりに入ってしまえば自分を判別するのが難しくなる。狙われないために選ばれないために『ひとくくり』に入ろうと努力する。

だからひとは、『ふつう』によわい。

『ふつう』はつまり、たくさんのあつまりだ。たくさんだから安心できる。だから自分もたくさんの中に入ろうとする。

『ふつう』を目指す。自己防衛のために。自分だけがはみ出て選ばれやすくならないように。

誰かを自分の思い通りにうごかしたい時は、『ふつう』と言えば相手はハッとするだろう。

もし間違っていたとしても、誰かが言う『ふつう』には説得力がある。

少なくとも相手にとって『ふつう』ならば、相手のふつうに入ってしまえば自分がはみでる事はない。

すくなくとも、相手には擬態できる。

誰かが『そんなのふつうだよ!』と言うとき、本当にそれはふつうだろうか?

『ふつうじゃない?』と言われた時は、注意が必要かもしれない。

相手はそれだけ『普通になりたがる人』なわけで、『普通』を意識してる人だろう。

あなたは人と話すとき、どれだけ『普通』という言葉を使うだろう。

『普通』は、呪いの言葉かもしれない。

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