相手を自分の思い通りにうごかしたいとき、どうするだろう。
私が思うに、人はとかく『誰かと一緒』に安心するものだと思う。
なぜ『誰かと一緒』があんしんするのか?
『誰かと一緒』を違うことばで表現するなら『同化』だ。
だれかと一緒になろうとするが、ほんとうの意味では一緒にはなれない。似せることはできてもカンペキに同じになることはできない。
たとえば考え方も、似せることはできても根本的には異なるばあいが多い。
育ってきた環境が違うから考えも違うし、感じることもちがう。生まれてから今までにあった出来事、成功体験もトラウマもぜんぜんちがう。
それでもひとは『誰かと同じ』に安心する。
カンペキに同じじゃなくても良い。似ていれば信頼できる。姿を似せてまねをする。つまり擬態だ。
動物も虫も、攻撃から身を守るために擬態する。自衛のために姿を似せ、動きを似せ、声を似せる。
自分の身を守るために簡単な手段のひとつが擬態だ。
おおぜいに似せれば似せるほど安心感が増す。
たくさんの中にまぎれることが出来れば、それだけたくさんの中から自分を捜し当てることは難しくなる。
たくさんの中に紛れ込んで判別しにくくする。たくさんの人が集まれば『おおぜい』と言う名のひとくくりに認識されるようになる。
そこに個は必要ない。『おおぜい』であり『たくさん』。誰かと誰かと誰かの集まり。
ひとくくりに入ってしまえば自分を判別するのが難しくなる。狙われないために選ばれないために『ひとくくり』に入ろうと努力する。
だからひとは、『ふつう』によわい。
『ふつう』はつまり、たくさんのあつまりだ。たくさんだから安心できる。だから自分もたくさんの中に入ろうとする。
『ふつう』を目指す。自己防衛のために。自分だけがはみ出て選ばれやすくならないように。
誰かを自分の思い通りにうごかしたい時は、『ふつう』と言えば相手はハッとするだろう。
もし間違っていたとしても、誰かが言う『ふつう』には説得力がある。
少なくとも相手にとって『ふつう』ならば、相手のふつうに入ってしまえば自分がはみでる事はない。
すくなくとも、相手には擬態できる。
誰かが『そんなのふつうだよ!』と言うとき、本当にそれはふつうだろうか?
『ふつうじゃない?』と言われた時は、注意が必要かもしれない。
相手はそれだけ『普通になりたがる人』なわけで、『普通』を意識してる人だろう。
あなたは人と話すとき、どれだけ『普通』という言葉を使うだろう。
『普通』は、呪いの言葉かもしれない。