『作ってる途中』の姿を見せるのは恥ずかしい
わたしは昔、絵を描くのが好きだった。
しかしいつからか、『描いてる姿』を見せるのがとても恥ずかしくなった。
『描いてる自分』を見せるのが恥ずかしい、というよりも、『描かれてる途中の絵』を見られるのが嫌だった。
最初から嫌だった訳では無いので、おそらく、昔の出来事がトラウマになってしまったんだと思う。
書かれてる途中、と言うのは、なんていうか『産んでる途中の姿』に似てる気がする。
産む、と言うとまだ美しいが、
より一層理解してもらうために、
ウンコ
という表現にしてみようと思う。
『自分から切り離す作業の途中』の姿をウンコに例える
例えばウンコそのものは恥ずかしくは無い。
自分のウンコだったとして、それを指差し、『あれはわたしのウンコ』と言うのは、まだそんなに恥ずかしく無い。
しかし、ウンコしてる最中を見られるのはどうだろう。
クッソ恥ずかしいと思う。
※そうゆうプレイが好きとかって場合はまずは割愛する。
自分と繋がってる瞬間を見られるのは、とても恥ずかしい。
なぜだろうか?考えてみる。
ウンコとは即ち汚物。
キタナイという事だ。
そのキタナイものと自分がくっついてる瞬間。しかも、そのキタナイものが自分から出ているという事実。
しかし離れてしまえば、それは最早『他人』なのだ。
『あれはわたしのウンコ』と指差すのは、まだそんなに恥ずかしくはない。
たとえアレがキタナイものだとしても、それは全員が必ずしている事だからだ。
ウンコしてる最中を見られるのは恥ずかしい、という感覚は、なんとも不思議な事だと思う。
排泄する姿は恥ずかしい。躾(しつけ)の問題?
例えば排泄の際にトイレに行く。
排泄の時に、誰にも見られない場所で済ます。
まず生まれてから最初に躾けられることだと思う。
しかし、もし躾けられなかったらどうなるのだろうか?
例えば犬や猫のように。
たとえばハムスターのように。
例えば鳥のように。
人間が生まれて、例えば狼に育てられたら、排泄している姿を見られることは恥ずかしいのだろうか?
わたしは、昔はみんなの前で絵を描く事は恥ずかしくなかった。
いったいどこで、『恥ずかしい』という概念を覚えてしまったんだろう。
考えてもどうしようもないが、今日はそんなことを思っていた。
こんな事を考えたキッカケは……
実は、腹痛で便に悩まされた一日だったから なのだった。
おわり!