365文

365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

一人になりたい、って言えない/ホントは気分屋なんかじゃない

一人になりたい。

切実にひとりになりたい時がある。

だけど『誰かと居たい』人もいる。

一人になりたいと思ってる人と、誰かと居たいと思ってる人の間には大きな川が流れている。

私は長らく実家暮らしで、今はシェアハウスで住んでいる。

一人で暮らした事がない。

基本的に一人暮らしの人は『できるだけ人と居たい』と思う場合が多いだろう。
それは何故か?家に帰れば一人になるからだ。

ベースが一人なので『たまには誰かと一緒にいたい』と思うのだ。

しかし、常に誰かと住んでる場合はどうだろう。
ベースが誰かと一緒なので、『たまには一人になりたい』と思うのだ。

一人暮らしの人は『誰かと居たい』と思う場合が多いだろう。

だけど、そうそう二人の気が合うことなんて無い。

そうなると、大抵はどちらかが我慢している可能性が高い。

お互いに干渉せずに自由に過ごせたら良いが、『合わせてしまいやすい人』は、無意識のうちに相手に合わせてしまう癖がある。

ちなみに私がそれだ。

結局のところ、誰かと一緒にいると疲れるのだ。

相手に気を使って予定を合わせたり、言葉を選んだり、態度に気を使ったりしてしまう。

しかし、相手からするとどうだろう。

(いつも私に合わせてくれるから)『一緒にいると居心地の良い人』が、『私の思い通りにならない』(一緒に居てくれない)事にストレスを感じたりする。

そもそも相手にとって、なぜ『居心地が良い』と感じるのか?

それは、私が相手に気を使って予定を合わせたり、言葉を選んだり、態度に気を使ったりしているからだ。

しかし、まさか気を使ってるだなんて思ってない相手は、『なんで一緒に居てくれないの?』と『何が嫌なの?』と理解できずに疑問なのだ。

『次はどうする?』なんて質問に、理由をきちんと言わずに『帰るよ』と言うと、相手はびっくりして理由を突き止めようとする。

『もう帰るの?』
『もっと居たらいいのに』
『まだ遊び足りない』
『こんなに楽しいのになんで帰るの?』
『他に予定があるわけでも無いのに、私のことが嫌いなの?』
『嫌いじゃないのに、なんで一緒に居たがらないの?』

思いこみが激しい人だったり、自分の意志がはっきりしてる人、言葉が強い人なんかは『気分が乗らないから帰るだなんて自分勝手だ』と言ってくる場合さえある。

場合に寄っては『気分が乗らない』という説明でさえ受け入れてもらえない。

『あなたと一緒にいて疲れた』とハッキリ言わないと解らない場合もある。だけど、ずっと相手に気を使ってきた私としては、出来る限りその一言は言いたくないのだ。

相手を傷つけたくないのだ。

嫌われたくないのだ。

相手は、私が最初から我慢してたなんて思いもしないのだ。

そして私自身も、『自分が相手に対してずっと気を使ってる』なんて思いもしないのだ。

だけど知らず知らずのうちにストレスは積もっていって、悲しい気持ちになったりイライラしたり落ち込んだりする。

私は『気分屋』だ。

だけど本当は気分屋な訳では無い。

気分屋だと言われてしまうが、本当は気分屋では無い。

相手が言った何気ない一言に傷ついて、何気ない行動にがっかりして、何気ない態度ひとつで嫌な気持ちになったりしてるのだ。

だけどそれは全部私の中だけでの話。

だっていちいち『今、なんでそんな事言ったの?』と聞いたり『そうゆう言い方はやめた方がよいと思う』なんて指摘してたら、相手は疲弊してしまうだろう。

要するに、細かすぎるのだと思う。

相手よりもかなり細かいが為に、気になるところが沢山あるのだ。

だけど、気になったことすべて相手に指摘しては嫌がられるだろう。相手にいちいち言うほど偉い存在でもないくせに、我ながら傲慢だとも思う。

相手はきっと『そんなつもりは無かった』とか『いちいちうるさいな』とか思うだろう。

まったくその通りだ。

だから、気になることがあったとしても、私はいつもそのほとんどを飲み込んでいる。

言いたいことを言わずに相手の話を聞き、頷いて、相手の感情を受け止めようとする。

言いたいことを言わずに飲み込んだりしているうちにストレスがたまって、悲しくなったり落ち込んだり。だけどそれでは良くないよな、と頑張ろうとして空回りしたり、無意味に笑ってみたり、そうこうしてるうちに楽しくなってきたり。

そういった事が相手からすると意味不明で、まったく解らず、理解できないから『気分屋』という単語で片づけられるのだ。

だけど、『気分屋で良いのだ』と思う。

なぜなら、私の心の中や脳内をすべてを見せる可能性はゼロだからだ。

それは相手が家族であろうと親であろうと恋人であろうとゼロなのだ。

私の考えている事はあくまでただの思考で、今まで生きて培ってきた記憶の集大成であり、トラウマであり、幸せな出来事のひとつひとつ。

そんなすべてを相手に説明する事は出来ない。だからこそ誰にも理解できないだろうし、理解されない事も解っているから。

ホントは気分屋なんかじゃない。

だけど、『気分屋だと呼んでくれ』と思っている。

一人になりたい。

一人になりたい、って言えない。

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