表現を真似されたかも知れないと感じる時、なにか懐かしいようなものを探り当てたような気になる。
自分がいつだか使っていた言葉が、人の書いた一文にありありと匂ってきて、最初は嫌悪感を覚えなかった訳でもない。
けれどふと考え直して、それほど『使ってみたい言葉として誰かの中に残ったのかも知れない』と思う。
もしかしたら尊敬されちゃってたり?気に入られてたり?真似するってことは、それほど『良いと思った』んじゃないの?なんて。
そこまで考えて今度は、『私が書くよりもっと昔に、似たような表現をしていた人は居ただろうに』と自分の厚かましさに気付いて頬が緩む。
べつに私が最初に日本語を創り出した訳でもあるまいし。2019年までのあいだに生きた人類は約1082億人。
そんだけいたらいくらでも似たような表現あるだろう。
いや、なんなら、私だって、誰かの受け売りなのかも知れない。
どこかで見かけた言葉が自分の中に染みついて、いつの間にか自分が最初に発見したかのように勘違いしてるのかも。
とにかく、私が表現した言葉を、誰かもまた使っているということは、やはり『良い表現』であったに違いない。
誰かにとっての『良い表現』を私も『良い表現』だと感じているのなら、きっと私は少しずつでも成長しているのだろう。
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私はいつでも生意気で、自分の生意気さがわりと好きだ。
思えば生意気なのは昔からで、大人になってから始まったものではない。
生意気で身の程知らずでこざかしく、厚かましく、かつおこがましい。
結構なことだよ、自分。
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自分が目指している方向はきっと間違いじゃない。
だから私は、またなにか新しい表現を開拓していこう。
誰かの受け売りだっていい。
ただ、自分では『新しい』と思える表現を。
新しく、まったくカッチリとハマるような言葉を。他に良い表現が見つからないほどベストな表現を目指して。