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365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

心を開くには『嘘をつかない』だけで良い?

ふと最近、『友人』という存在について考えた。

私が『人の顔色ばかり見ている』と言うのは時々綴っていることだが、人の顔色ばかり見ているおかげで自分の意見を言わない事もしばしば。

・・・いやウソついた。正直、自分の意見なんてほとんど喋っていない。

私は多分、ものごとを客観的に見るクセが付いている。

物事を客観的に、多角的に見ることで、それを総合した『一般論』を喋ってみたり、有名な人の言葉を『引用』してみたり、はたまた相手を喜ばすために『褒める言葉』ばかり喋っている。

その中に自分の意見があるのかどうか、自分ですら解らない時がある。

だから友人と話していて、
『○○って可愛いよね』なんて聞かれた事に対し、
『あぁ、(一般的には)可愛いよね。』と言った意味で返事をしている事があるし、
『わたしってダメなのかなぁ』なんて弱音を聞かされれば
『そんなことないよ。(世間にはもっと大変な人が居るから)大丈夫だよ』なんて返事する事もある。
それは基本的に『相手をがっかりさせない』と言う事に注力して会話をしているだけだ。

とは言え、相手の顔色ばかり見て会話している私には、もはや私自身の意見がどこにあるのか良く解らない。

『相手の望んだ言葉を返す』ことだけが私のコミュニケーションなのかもしれない。

『相手が欲しがっている言葉が解る』と表現すると良いだろうか。

解るから、返すだけ。

例えば野球のバッティングと一緒。

球がどの方向から飛んできて、どこへ飛ばして欲しがっているかが見える。だから、私は『そっちの方向』へ向けてバットを振るだけ。

私の『人の顔色ばかりを伺っている』能力のおかげか、今のところは『大ハズし』したことは無い。

いや、もしかすると、ただ合わせてくれてるだけなのかもしれない。そして、『大ハズし』する場合は、相手の方が私を避けて、寄ってこないだけなのかもしれないが。

さて、『友人』と言う存在を考えた時、『心を開いてない』と言う事実に行き着いた。

いや、考えてみると、私は友人どころか、親にさえ心を開いていない。

身近で、育ててくれて、血が繋がっている親になぜ心を開かないか?理由は簡単だ。

『良い子』じゃないと、受け入れて貰えないからだ。

いや、〝良い子〟じゃないと、まともに相手をして貰えないのだ。

母が思う『良い事』に私が染まってないと嫌がる。

私が少しでも母と違う事を言うと、すぐに『あんたは・・・』と説教されたり、『そうゆうのは辞めなさい』と止められたりする。

そんな事をずっと繰り返した結果、私は『反抗期』に反抗する事をせず、『客観的に見つめる』ことでバランスを取ってきた。

『ああ、そうゆう考えの人もいるよね』
『あぁ、他の面から見たらそうかもね』

そうして自分の考えなどを発信することから逃げた。

気づけば、自分の感情や意見が良く解らない。

あまりにも物事を客観的に見過ぎたせいか、『客観的に物事を見る』のが私になっていた。

『嘘をついている』自覚は無い。

なぜなら、自分の意志が自分で解らないから。

でも、知らず知らずのうちに嘘をついているのかもしれない。

そんな事を考えた。

私が人に心を開くためには、『嘘をつかない』ことが大事だと思った。

だけど、相手を怒らせないようにとか、相手の為を思ってとか、そんなふうに相手を中心に考えて会話をしていったら、やっぱり私は知らず知らずのうちにまた嘘をつくんだろう。

相手を怒らせることになったとしても、自分の本当の気持ちを相手に伝える。

『心を開く』って言うのは、そうゆう事なのかも知れない。

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