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365日ぶんの、フラッシュ・フィクションたち。

屠殺(とさつ)が出来ない男

現代はとかく〝生命〟を生身に感じることが少ないなぁ、と思ったので、農業の学校へ進んだ友人の話をしようと思います。


※この内容は、生命について、一部ショッキングな事を含みます。〝生きること、死ぬ事、殺す事〟についてです。
閲覧される方は、以上を踏まえた上で読んでください。

農業高校に進んだ友人

仲の良い友人が農業高校へ進学しました。

農業。

〝農業(のうぎょう)とは、土地の力を利用して有用な植物を栽培し、また、有用な動物を飼養する、有機的な生産業のこと〟
wikiより 

食べるということは、生きるということ。
食べるということは、他の命を頂くということ。

友人の学校では色んなことを学んだようです。特に〝生きる〟ということについて。友人の事を、現代に於いて、一番真摯に向き合っている人なんだなと思った瞬間がありました。

友人が面白がって、冗談のように話しているのを聞かされただけなんですが、
「もし私と無人島に行っても、困らないよ」
と言いました。

それだけなら普通の話かと思うのですが、実はその直前に、こんな話をしました。

屠殺が出来ない男


屠殺という言葉を知ってるでしょうか?
私はつい最近〝マタギ〟について調べていた時に知りました。

屠殺〝とさつ〟と読みます。

屠殺とは
屠殺(とさつ)ないし屠畜(とちく)(漢字制限により「と殺」や「と畜」とも)とは、家畜等の動物を殺すことである。
wikiより

友人は、授業で屠殺をしたそうです。その時はそんな単語は使ってなくて、〝シメた〟と言ってました。

「クラスの男が、鶏をシメられない」

そんな内容の愚痴を言ってました。
怖くてシメられないなんて情けない、という内容でした。

「もし私と無人島に行っても困らないよ」

と言う言葉は、もし無人島に行っても、私は鶏をシメれるから鶏肉を食べられる。
だから栄養をしっかりと取れる。
草や魚ばかりしか食べられない生活じゃなく、贅沢な生活が出来る

そんな意味を感じました。

私は、ハッとしました。

念のため伝えると、彼女は動物が嫌いなわけではありません。むしろ動物は好きで、彼女の家には大型犬と猫2匹とハムスターと金魚が居ました。

彼女は動物が好きでした。

そんな彼女の姿勢を見て、私は〝生きる〟と言うことがどんな事なのか、ほんの少しその意味を知りました。
自分で屠殺したことは有りませんが、もしそうゆう状況になった時。そうしなければ自分の生命が危険な時。(そんな事は無いまま、一生を過ごしたいと思いますが)

その覚悟をしなくてはいけないのだな、と思いました。

いえ、本来は自分でしなければいけない事を、〝誰かが〟やってくれているのだと、理解しないといけないな、と思いました。

食卓に並ぶ、綺麗な食事。
それは、誰かが料理して、誰かが販売してくれて、誰かが運んできてくれて、誰かがパッケージしてくれて、

そして、誰かが屠殺してくれているということ。

それは残酷な事に思えるかもしれません。

しかし、それは〝誰かが〟やってくれているだけなのです。

自分の手を汚さずに、恐ろしい気持ちになる事もなく、そこに体温を感じる事も無く。

そうして、自分の口に入り、血となり肉となっているのです。

私は、友人の経験を通して、ほんの少し、気づくことができました。

……本当はもっと伝えたい事があるのですが、うまく言葉に出来そうにありません。

食事の前に〝いただきます〟という言葉は言ってるでしょうか?

これを読んだ誰かにも、考えるきっかけになれば良いなと、思っています。

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